ひげをそり、顔を洗い、服を着替え、6時になる10分前に本堂へと向かった。
昨日書いた写経を、本堂入り口で、お坊さんにお渡しし、本堂に入った。
本堂では厳かな雰囲気の中、お経が唱えられ、参列者は順に習って、焼香を炊いた。
その後、般若心経を唱えた。
かつて、高校生のころ、座禅をしに鎌倉に通ったことがあったが、そのときも、座禅の後に般若心経を唱えた。
低音が響く、音のバイブレーション。
私はこれが意外と好きだった。
仏像をみても、特にありがたいは思わない。
神とか仏とか、普段、あまり考えていない。
しかし、お経は、嫌いではなかった。
経が終わると、本堂を一周し、様々な仏像の顔を見た。
この行為には、それほどの興味を覚えない。
仏像は、私は、本当にどうでもいい。
ブータンでも、こうした、仏像をまじまじと見るということをしていた。
なにがそんなに面白いのだろう。
やがて部屋に戻ると、すぐに朝食が運ばれた。
食事の後は、阿字観瞑想のため、広い部屋に案内された。
意外と忙しい。
部屋に入ると、サンスクリットの文字が書かれた掛け軸があり、その横にお坊さんがいた。
座布団の上に座り、まずは、説明を受ける。
この説明が長い。
40分ぐらいの説明だった。
阿という文字の意味、姿勢、呼吸の仕方、手の形(印)とその意味など、丁寧なレクチャーとは裏腹に途中、なんどかうとうとしてしまった。
瞑想時間は実際は20分ぐらいだった。
しかし、この20分も決して、短いとは思わなかった。
むしろ20分が限界であった。
ここの阿字観は、阿息観察法と言われ、あー、という声を出して、「あ」の響きを体験するというものだった。
準備瞑想という、内側のもやもやしたものをはく息とともに外に出し、きれいな空気を内にいれるというのは、ほかでもよくきく瞑想法だった。
その後、声を出す瞑想がはじまった。
あー、と声を出す。
お坊さんの出す声の高さに合わせたくなる。
しかし、あえてここでは合わせるのをやめた。
よくできましたと、思われるための修行ではない。
自分の為の修行。他人に合わせてどうするのか。
自分が出しやすい声で、唱えよう。
お坊さんもそれを勧めていたではないか。
やがて、出しやすい声の音域が定まってきた。
他の参加者の声が気になる。
一人、やたらと長い息の人がいる。
地の底に響く「阿」が自分の体を通って、口から出ることをイメージする、と言う。
そして、もともと あ という音は、宇宙に鳴り響いているという。
なんだか、よくわからない。
想像をするが、それであっているかがわからない。
雲をもつかむような話だ。
そもそも、イメージするというのが、よくわからない。
なんとなく、やれているように、やれているふりみたいな感じになってきて、居心地が悪かった。
苦しい。
心穏やかになんて、できない。
あれやこれやの雑念に包まれているうちに、20分がたった。
しかし、お坊さんが言った最後の言葉に救われた。
「さて、みなさま、どうだったでしょうか。
だいたいの人が、これでいいのかなという雑念にさいなまれ
もう限界だ、と思うところまで来る、というのが、平均です。」
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